October 18, 2005

武道の心、無道の心

私自身武道を習い、武道の心を会社の運営にも活かしています。
私どもの主催する研究会で、武道に関する勉強会を行いました。

スポーツと武道
以前に比べると、格闘技も人気スポーツになったものです。
柔道・空手・ボクシングと言った競技に加え、K-1やPRIDEなどのプロスポーツも盛んになり、自らがやるというよりも観るものとしての人気も定着してきたようです。(競技人口自体は伸びていないようですけれど・・)

試合に勝つことが目的であるスポーツに対して、「武道」と言われるものは若干ニュアンスが違います。
本来武道は、生き残るための戦う技術(多少御幣があるかもしれませんが・・)。
それが「強く生きる」「美しく生きる」「周囲と調和して心豊かに生きる」と言った「生きるための術と教え」として発展しているものではないかと思っています。

だから、武道と言うと若干哲学的な概念が強くなります。
ただ、現代のスポーツ化された武道にしても、武道の形をした武道にしても、何処までその「哲学」を伝えきれているか?難しいことですが、病める現代において、道を示す「哲学」の存在は、いっそう強く求められているものではないはないでしょうか。

形にとらわれえる事が武道ではない
武道に詳しいという人たちの中には、形に合わないことを殊更に批判し、武道や武士道と言う言葉を「形」にはめてしまうこともあります。しかし、礼儀、形式だけにとらわれて中身が備わっていないと意味がありません。

本来「道」と付く物は「守・破・離」といわれるように「形から入り、あるレベルに達すると形を破り、自由に表現する」と言う流れを持っているようです。形に合わないもの(違う意見や他流派のやり方など)を否定して、「武士道とはこうあるべき」などと言っている内は「まだまだ修行が足りぬ」ことを自ら証明しているようなものなのかもしれません。

成長する上で、「形」を学ぶことは非常に大切です。しかしその形に固執して他人に強要したり批判することは、もっと醜いことですね。形として学ぶ知識や儀礼、技などは、どんな場面でも全て必要と言うわけではない。だから、その場の状況にあわせて無駄なものは省く・削ぎ落とす。
そのように、形を知った上で形を崩す、つまり『無』に向かうことで、形は「合理的」に機能し「速く」「しなやかで」「美しい」技や生き方が実現できる。

こうした考え方を 『無道』 と言ってみました。

本来、人の心を知ること
『武』という言葉のイメージは「力で相手を封じ込める」と感じがちです。
しかし、よくよく考えてみると「相手と自分の関係をコントロールする」もの、つまり「コミュニケーションの手段」とも考えられなくもありません。
相手を「封じ込める」よりも「味方につける」ことが出来れば、より「強く美しい」解決策ですね。

この考えかたから導かれたもう一つの仮説

『無道』とは『愛』である。

いかがでしょうか?

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